あれから50年、高校生の時に出会って以来、ずっと心の奥底に残っている哲学の教えが私にはある。それはカントの定言命法だ。心に残るというよりも、ロクに理解できずに「引っかかっている」というのが正直なところだ。
「汝の意思の格率が、常に同時に普遍的な法則として妥当しうるように行為せよ」・・・和訳によってニュアンスに微妙な違いがあるように思えて解釈が難しいが、迷い道に出会ったときに思い浮かぶ言葉だ。
人は人生の様々な場面で右に進むべきか左に進むべきか、重大な選択を迫られる。ある企業経営者によると「判断」とはデータに基づいて決定すること、「決断」とはエイヤッ!で決定することだそうだ。株主への結果責任を経営者が負う民間企業なら「決断」もあってしかるべきだが、札幌市に奉職した私の経験によると、全体の奉仕者である公務員はそうはいかない。賛否両論の利害関係者である納税者全員への説明責任が伴うからである。
官民問わず、組織の中にいると、役職が上がるにつれて時に自分の判断が組織の将来を右にも左にも進めることになりかねない決定を迫られることがある。そのとき、私が心の拠り所としてきたのがカントの定言命法であり、誰が(私の)このポストに就いても選択するであろう道を選ぶよう心掛けてきたつもりだ。
いま札幌市は、冬季オリ・パラ招致運動の推進において重要な岐路に立っている。東京オリ・パラの関係者が逮捕される事態となり、再び三度、大会の「負の側面」がクローズアップされているからだ。札幌招致運動に水を差すことは避けられないが、今声を上げるべきはJOC役員やスポーツ関係者ではない。招致立候補都市である札幌市こそ、データに基づくまちづくり効果を示す「判断」と、情報公開の徹底による公明正大な大会運営の実現を宣言する「決断」を表明するべきであり、もしもそれができない(現状はできていないと考える。)のであれば、立候補辞退もやむを得ない選択である。仮にもぼったくり男爵との「密約」で招致成功では、決して市民の評価を得られないことは明らかである。現役の市職員には安易に上意下達に走ることなく、汝の行為が常に同時に普遍的法則となるよう行為してほしいと願っている。